効エネルギー日記

エネルギーの効率的利用を中心に、自分の考えを述べる。

近くの公園を掃除する

年に二回ある近くの公園の清掃が今日だった。たまたま外で仕事をする予定がなかったのが幸いし、足に痛みがある連れ合いの手助けをするつもりで、2〜3分のところまで9時に出かけた。女性の大群に男性はわずか数人。住まっている地域の自治会が行っているいわば奉仕作業だが、一応自治会員は参加する義務がある。しかし、住民の高齢化が進んで、足下もおぼつかない人が増えて、参加者は減り気味のようだ。しかも、このような行事を煩わしく思って、また、世話役がいつか回ってくるのを忌避して、自治会に入るのを拒否する世帯もある。参加は強制ではないとはいえ、情報の回覧やゴミの当番なども日常的に発生し、抜ける人が増えると他の人に負担が増えることになる。お隣も拒否組だが、ゴミ当番だけはやっている。自分の家の出すゴミを市に回収して貰わなくてはならないためだが、実に自分勝手な話だ。
昨晩雨が降ったために落ち葉が濡れていて集めにくい。落ち葉は放っておけば土に還って樹木の養分になるのだが、乾いた落ち葉が近所に飛び回ることにもなるためにかき集めざるを得ない。公園周りの溝に落ちたごみもあるが意外に変なものがないのは、この地域の健全性を示しているのだろうか。このような作業は行政の仕事で、自分たちは税金を払っているのだから参加しないという主張もある。しかし、周辺の環境を維持するのは、基本的に住民の責任だという理屈の方が妥当だろう。
海外にいたときに、学校の教室の掃除も外部の人がやっていたのにびっくりした経験がある。自分の教室の掃除は、単なる清掃行為ではなく一種の躾教育だと思う。この頃このような社会が行う躾、あるいは家庭で行う躾まで学校がすべきだという風潮が強くなっているが、社会の基本的強さを崩壊させるものだと思う。
掃除が終わるとこちらにはすることがなくなったが、女性群にとっては久しぶりの情報交換の場であるようだ。連れ合いもしばらく帰ってこなかった。ご近所の90歳の女性は、腰が折れ曲がっておられるのに、住民の義務だからねといって参加しておられた。身体を心配するみんなから箒を取り上げられて物理的な掃除はさせて貰えなかった。しかし、ここへ足を運んだことによってみんなから身体の心配をして貰ったのは、自宅に居たのでは得られない変化があって気分転換になったのではなかろうか。また、参加できたという充実感もあっただろう。桜の花もまだ残っていて、気候も外出に最適。小さなピクニックになったのなら嬉しいことだ。