効エネルギー日記

エネルギーの効率的利用を中心に、自分の考えを述べる。

葬儀に出席して

今日、東京の増上寺で行われた(株)富士経済の故阿部英雄会長の社葬に参列した。自分が仕事で関係があるということもあるが、それよりも俳人歌人としても知られるこの文人経営者が、私の父親が亡くなる前に趣味として行っていた英語俳句誌「薊(あざみ)」の編集発行を評価してくださったことが、父にとって大きな生き甲斐になっていたことへのお礼の気持ちの方が大きかった。社葬というと、有名経済人や政治家の弔辞や弔電がつきものであるのが、今日はその種のものが全くなく、故人が支援していた文化活動を推進している人から心のこもった言葉があっただけだったのは、禅にも深い関わりを持っておられた故阿部氏をしのばせるに十分なものだった。
父は中年頃から俳句をひねっていた。近年俳句がHaikuとして世界的に詠み人が多くなり、海外作家の作品が発表されるようになったのを知って、自分が得意な英語を活かす趣味として自作を英語にして投稿していた。それへ反応して英語俳句を送ってくれたり、批評を送ってくれた人たちの英語俳句の作品を、自分の属する俳句集団が出していた「薊」の名前をとって、英語俳誌「Azami」という名で編集し、仲間に送るのを純粋に趣味として始めたのだった。俳号の一谷を英語にしてIkkokuとして発表する英語俳句が海外の俳誌にも発表されることも増え、Ikkokuとその俳誌「Azami」は世界に知られるようになり、海外からの投句も増えていった。こまめにそれへ返事をし、協力してくださる墨絵も入れて編集しては送ったのが最終が58号、部数も100部近くになっていただろう。晩年は自分の年金と、時間のほとんどを編集に充てていた。それを抜粋して出版してくださる所もあって、「心の四季ー東と西」JDC出版として書店にならんだこともある。
その本を買い求めてくださる方のところへ数十冊まとめて運び込もうとした時に足を滑らせて転倒して腰骨を打ち、それが遠因となって90歳で世界を異にしたのが8年前だった。その英語俳句を通じて世界とのつながりを生甲斐にしていた父の背中を押してくださったのが故阿部会長だったのだ。父が亡くなった後も数年ほどは「Azami」への掲載を求める投稿が世界から来たのだが、その返事をする役割を母から命じられた。ある程度の俳句をし、英語で俳句を書け、そして編集する時間と能力を持つ後継者が見つけられないのでAzamiを廃刊せざるを得ないと書くのは寂しくつらかったものだ。そのころ海外からの投稿してくださった方々はどうしているのか、また、英語俳句に関心を持つ人が増えているのだろうかと今日改めて思った次第。
父が死後、できあがっていた冊子に亡くなったとの手紙を添えて送った最終号の写真。